YELLOWMAN

イエローマン


・Birth name / Winston Foster
・Date of birth / 1956年1月15日
・Hometown / ジャマイカ ネグリル


通称キング・イエローマンは、1980年代のダンスホール・レゲエシーンを牽引したジャマイカの伝説的ディージェイだ。
生まれつきのアルビノ(先天性色素欠乏症)による激しい差別や孤児院育ちという逆境を、最大の蔑称を芸名に変える強烈なユーモアとスキルで跳ね返した。
1981年にアメリカのメジャーレーベルと初契約を結び、1983年の世界的大ヒット曲「Zungguzungguguzungguzeng」など、下ネタや社会風刺を交えたスタイルでダンスホール・レゲエ界初の国際的スターとなった。
その後、顎の癌による余命宣告を奇跡的に克服し、グラミー賞ノミネートやジャマイカ国家勲章を受賞。現在も現役でステージに立ち続けている。
2026年6月にはジャパンツアーが全国9箇所で開催予定であり、力強いライブパフォーマンスは今なお健在である。


1956年1月15日
ジャマイカのウェストモアランド教区ネグリルにてアルビノ(先天性色素欠乏症)として誕生。
当時のジャマイカ社会においてアルビノは強い社会的タブーであり、忌み嫌われる存在であった。そのため実の親によって生後間もなくゴミ捨て場近くに捨てられた。孤児となった彼は、政府や教会の施設に引き取られることになる。


幼少期(1956年〜1960年頃)
家庭を知らずに育ち、キングストンのマックスフィールド・パーク児童ホームやスウィフト・パーセル少年ホームなど複数の施設を転々とする中で、安定した居場所を得られなかった。
さらにアルビノの容姿を理由に「ドゥンドゥス(アルビノへの蔑称)」と蔑まれ、施設内外で激しい差別やいじめを受け、周囲からも排除されるなど、深い孤立と苦しみを抱えた過酷な少年時代を送った。 
この地獄のような環境の中で、彼は「いじめてくる相手に対して即興で歌を歌い、笑わせて暴力を回避する」という独自の世渡り術を身につける。これが彼の驚異的な即興能力(ディージェイ・スキル)の原点となる。


1960年代後半〜1970年代前半
その後、キングストンにあるカトリック系の孤児院アルファ・ボーイズ・スクールに預けられる。これが彼の人生の最大の転機であった。
この高名な職業訓練・全寮制学校は多くの著名なレゲエミュージシャンを輩出したことで有名なジャマイカ音楽の聖地である。また、厳しい規律のもと自立のための実践的な技術として靴職人(製靴)の技術を徹底的に叩き込まれた。
アルビノへの冷たい視線や孤独感は続いていたが、彼は学校にあった音楽環境に救いを見出し、U・ロイら初期ディージェイの影響を受けリリックを書き、ビートに乗せる技術を熱心に磨き始めた。
周囲から自分を貶めるために呼ばれていた「イエローマン(黄色い男)」という蔑称を、彼はあえて自分の誇り高き芸名として受け入れる決意を固める。いじめを跳ね返すための強固な反骨精神と、音楽スターになって見返すという野心が、この学び舎で完全に形成されたのだ。


1977年-
アルファ・ボーイズ・スクール卒業後は身寄りのない若者や高齢者が集まる救貧院「エヴン・タイド・ホーム」に移り住む。そこから街のレコーディングスタジオや夜のキングストンへ通い詰めた。
ここでジェミナイ(Gemini)やブラック・サウス・インターナショナル(Black South International)といったサウンドシステムで代役のディージェイ(Deejay)としてマイクを握り始める。
当初は容姿を理由に観客からブーイングを浴びるが、圧倒的な即興リリックのセンスと自虐ユーモアで、瞬く間に地元のストリートの若者を虜にしたのだった。


1979年
ジャマイカ最高峰の新人発掘オーディションテイスティ・タレント・コンテスト(Tastee Talent Contest)に出場。当時大ヒットしていたローン・レンジャー(Lone Ranger)の楽曲へのアンサーソング「Barnabus Killing」を披露し、強烈なインパクトを残して準優勝を果たす。(ちなみにこの時の優勝はナディーン・サザーランド)
この快挙により、ジャマイカ全土の音楽関係者にその名が知れ渡る。


1980年
前年のコンテスト準優勝後も救貧院「エヴン・タイド・ホーム」での生活を続けていたが、地元プロデューサーに才能を見出され、活動の場をストリートからスタジオへ移す。そして自身の出自や当時の生活を反映したシングル 「Even Tide Fire」 を録音し、これがジャマイカで流通する初の公式デビュー作となった。
デビューに続き、プロデューサーのアルバート・トムソン(Albert Thomson)らと制作した「Soldier Take Over」を発表。政治的緊張が高まる当時のジャマイカ社会をユーモアと鋭い視点で描いた同曲は、ゲットーの若者たちの共感を集めてラジオやサウンドシステムで広く流され、彼にとって初の本格的ヒットとなった。
ボブ・マーリーに代表される70年代のルーツ・レゲエ中心の潮流が弱まる中、イエローマンは従来の価値観を覆す新たな路線へ転換し、アルビノの容姿を逆手に取った自虐と誇張を交えた過激なスラックネス表現を確立。さらに、従来よりもメロディアスで耳に残る“歌うようなトースティング”を生み出し、後のダンスホール・ブームの基盤を築いた。


1981年
ボブ・マーリーが急逝したことでルーツ・レゲエの時代が終焉を迎え、ジャマイカの音楽覇権がダンスホールへと完全に移行した歴史的転換点となったこの年、イエローマンは当時ジャマイカ最大勢力のサウンドシステムであるエース・インターナショナル(Aces International)の看板ディージェイとして定着し、毎週の野外ダンスで観客を沸かせて現場での不動の支持を築いていた。また、様々なコンテストなどで圧倒的なスキルを示し、ジャマイカのトップディージェイの称号を確立した。
一方、チャンネル・ワン(Channel One)スタジオで初のアルバム『Them a Mad Over Me』を制作し、表題曲や「Me Kill Barnie」など過激なスラックネス路線で大ヒットを記録。ピーター・トッシュ(Peter Tosh)からは「女性を侮辱している」と公に強く批判されるも、それが話題性と人気をさらに高める結果となった。
ボルケーノ・レーベル(Volcano)主宰の名プロデューサーであるジュンジョ・ローウェス(Henry “Junjo” Lawes)との連携を強め、翌年(1982年)の世界進出に向けた楽曲制作を加速させる。こうした動きとジャマイカ国内で巻き起こした圧倒的な人気を背景に、アメリカの大手レーベルであるColumbia Records(CBSレコード)が彼に注目し、ローカルなダンスホール・アーティストとして史上初めて同社と世界契約を締結。これによりレゲエ界のパワーバランスを変革し、国内スターから世界へ飛躍する国際的トップスターへの決定的な転機となった。


1982年
イエローマンにとって1982年は、プロデューサーのヘンリー・“ジュンジョ”・ローウェス(Henry “Junjo” Lawes)と伝説的バンド、ルーツ・ラディックス(Roots Radics)と組んだ黄金期の中で、世界的な知名度を不動のものにし、ボブ・マーリーを上回るほどの膨大なアルバムを発表した全盛期の頂点である。
ロンドンのレーベル「グリーンスリーブス(Greensleeves Records)」およびアメリカの「シャナキー(Shanachie)」から、初期の代表作となるフルアルバム「Mister Yellowman」をリリース。ルーツ・ラディックスの重厚なリズムと即興フロウが融合し、その革新的スタイルはビルボード誌からも「最小限のトラック上でラップのように語る」と高く評価された。
また、同アルバム収録曲の「Yellowman Getting Married」が世界的ヒット。アルビノとして激しい差別を受けてきた彼が「俺は完璧な夫になるぜ」と不敵に歌い上げる内容で、国内外のダンスホールを席巻する。
この年だけで「One In A Million」や「Duppy Or Gunman」など、膨大な数のLPやシングルを同時並行で発表し、ボブ・マーリーを凌ぐ勢いで作品を量産する中、ファットヘッド(Fathead)とのコンビで現場のトレンドを席巻し、さらに英米ツアーの成功によって国際的地位を確立、そのスタイルはニューヨークの初期ヒップホップにも大きな影響を与えた。


1983年
ヘンリー・“ジュンジョ”・ローウェス(Henry “Junjo” Lawes)との協働のもと、グリーンスリーブス・レコーズ(Greensleeves Records)から発表されたアルバム及びシングル「Zungguzungguguzungguzeng」は、ダンスホール・レゲエ史における世界的アンセムとなった。本作は、チャンネル・ワン(Channel One)スタジオで録音されたアルトン・エリス(Alton Ellis)の楽曲を基にした「Diseases」リディムを使用し、ルーツ・ラディックス(Roots Radics)による重厚なベースラインの上で、独創的な言葉遊びとリズム感を提示することで、ジャンルの表現領域を大きく拡張した。
この楽曲における特徴的なフロウは、単なる一過性のヒットに留まらず、後の音楽文化全体に持続的な影響を与えた。とりわけそのキャッチーなリフレインは、ヒップホップ界において広く引用・再解釈され、ノトーリアス・B.I.G.(The Notorious B.I.G.)、ツパック・シャクール(Tupac Shakur)、カニエ・ウェスト(Kanye West)といった主要アーティストによって多数のサンプリングやカバーが行われた。これにより、本作はジャンルを横断する普遍的な音楽的モチーフとして定着した。
続く「Nobody Move, Nobody Get Hurt」も国際的成功を収め、ユーモアと緊張感を併せ持つ作風で世界的認知を拡大した。さらに、コロンビア・レコード(Columbia Records)とのプロジェクト始動により、グローバル展開の基盤が確立された。


1984年
巨大メジャーレーベルであるコロンビア・レコード(Columbia Records)から、満を持して発表されたメジャー第一弾となるアルバム「King Yellowman」は、ビリー・ニックス(Billy Nyx)らのプロデュースのもと、ダンスホールにポップスやファンク、ディスコの要素を融合し、世界のメインストリーム市場を強く意識した作品として成功を収めた。
これに伴うワールドツアーではアメリカやヨーロッパ各地で公演を行い、いずれも大きな反響を呼んだ。さらに、ジャマイカ最大級のフェスであるReggae Sunsplashではメイン級の出演を果たし、国際的スーパースターとしての地位を決定づけた。
人気の絶頂にあったこの年の半ば、身体の異変を感じて医師の診察を受ける。その結果、非常に進行の早い重篤な皮膚がん(悪性黒色腫/メラノーマ)であるとの残酷な診断が下る。がんはすでに顎の骨の組織にまで深く転移しており、医師からは余命は長くて6ヶ月という実質的な死刑宣告を突きつけられる。
これによりすべての活動を停止し、表舞台から姿を消すこととなったが、彼は大手術と過酷な闘病に向き合う決意を固め、生命を賭した闘いへと踏み出していく。


1985年
悪性黒色腫(悪性黒色腫)の進行を食い止めるため、左顎の骨と周辺組織を大きく切除する大手術が行われた。手術は成功し一命を取り留めたものの、顔貌は大きく変化し、発声や表現への影響が懸念される中で過酷なリハビリ生活に入ることとなった。
この影響で活動は大きく制限され、ライブや新作制作は停止される。一方で、表舞台からの不在により死亡説まで流れる中、逆境を乗り越えつつある存在としてイエローマンはむしろ神格化され、世界的な評価と伝説性を強めていった。
闘病の最中には、彼を支え続けたロージーと結婚を果たす。この家庭の獲得は、孤独な生い立ちを持つ彼にとって大きな転機となり、その後の子どもたちの存在とともに、生きる意志と復帰への強い原動力となった。
さらに、死線を越えた経験と家族の支えは内面的変化を促し、それまでのスラックネス中心の作風から、社会性や人道性を重視した表現へと向かう契機となる。療養期間は、次章における音楽的転換の精神的基盤を形成する重要な時期となった。


1987年
医師の余命宣告や死亡説を覆し、イエローマンはついにライブの現場へ完全復帰を果たす。「死の淵から生還したキング」としての姿は観客に圧倒的な衝撃を与え、その存在は神格化の域へと高められた。ジャマイカ最大級の祭典Reggae Sunsplashのステージに登場すると、変貌した姿にもかかわらず、圧巻のパフォーマンスで数万人の観衆を熱狂させる。困難な発声条件の中でも高速フロウを維持し、キングの帰還を強烈に印象づけた。
復帰後はブラック・スコーピオ(Black Scorpio)のモーリス・ジョンソン(Maurice Johnson)と組み、本格的な制作活動を再開。シャナキーおよびグリーンスリーブス・レコーズから復活作「Don’t Burn It Down」を発表し、社会的・政治的テーマを前面に押し出す新たな表現へと転換した。
この変化により、彼は単なるエンターテイナーから社会を代弁するコンシャス・ディージェイへと進化を遂げる。その不屈の復活劇は、後進のアーティストたちにとっても大きな指針となり、レゲエ史における重要な転換点として位置づけられる。


1988年
当時アメリカのヒップホップ・シーンの頂点に君臨していたラップグループ、ラン・ディーエムシー(Run-D.M.C.)からの熱烈なオファーにより共同制作を敢行。彼らのアルバム「Tougher Than Leather」に収録された楽曲「Roots, Rap,Reggae」にゲストボーカルとして全面参加。ジャマイカのダンスホールレゲエとニューヨークのヒップホップが公式に融合した初の記念碑的作品となり、世界中の音楽メディアを震撼させる。
また、ラン・ディーエムシー(Run-D.M.C.)のDJであるジャム・マスター・ジェイ(Jam Master Jay)らとの現場での交流を通じ、ニューヨークのストリートカルチャーと深く結びついた。その中で彼の即興フロウはDJたちに“素材”として強く認識され、ヒップホップにおけるサンプリング文化へと直接的に接続される契機となる。結果として、翌年以降に彼の楽曲が多数引用される流れを決定づけた。
さらに、サンクチュアリ・レコーズ・グループ(Sanctuary Records Group)から発表された「Yellowman Rides Again」は、闘病を乗り越えた復活を強く印象づける作品となった。タイトルが示す通り、イエローマンの再始動を象徴し、その健在ぶりを世界に示すアルバムとして高い評価を得た。
加えて、サジタリアス・バンド(Sagittarius Band)を率いたワールドツアーを継続し、アメリカやヨーロッパで活動を展開。ライブではアパルトヘイト批判や家庭内暴力撲滅といった社会的メッセージを軸に据え、音楽性と思想性の両面から国際的なリスペクトを確立した。


1991年
ダンスホール・シーンでは、シャバ・ランクス(Shabba Ranks)やニンジャマン(Ninjaman)といったデジタル世代が台頭する中、イエローマンはサジタリアス・バンド(Sagittarius Band)との生演奏を軸に、ライブの帝王として独自の地位を維持し続けた。
しかし、この年に悪性黒色腫(悪性黒色腫)の再発が判明し、再び命の保証がないという深刻な状況に直面する。二度目の発症は極めてリスクが高く、彼にとって最大級の精神的試練となった。
この危機に対し、再度の大規模手術を受けることとなるが、すでに顎の骨を失っていたため、さらなる切除は発声機能の喪失という致命的リスクを伴っていた。それでも彼は手術を乗り越え、再び声を取り戻すための過酷なリハビリに挑むことで、生存と表現の両立を目指した。


1992年
二度にわたる死の危機を乗り越えたイエローマンは、奇跡的な回復を遂げて音楽シーンへ復帰する。闘病経験を通じて生かされた命への強い自覚を持ち、表現者としての責任感を深めながら新作制作へと再び踏み出した。
その成果として、ベスト盤「Total Recall Vol. 3」がソニー・ミュージック(Sony Music)やVPレコーズ(VP Records)に連なるプロジェクトから発表され、1980年代の功績が再評価される。これにより新世代のリスナーにもその影響力が再認識された。
ライブ活動も本格的に再開され、エネルギッシュなパフォーマンスを維持しつつ、従来のスラックネス中心の楽曲を控え、社会問題や精神性を重視した内容へと移行。コンシャス・アーティストとしての方向性を明確に打ち出した。


1994年
この年にラス・レコーズ(RAS Records)から発表されたアルバム「Prayer」は、イエローマンの精神的到達点といえる作品である。マイティ・ダイアモンズ(The Mighty Diamonds)の古典「Have Mercy」のリディムを用い、二度の生死の淵を越えた経験を背景に、神への深い感謝と祈りを厳かに表現した。
本作を契機に、彼はかつての下ネタ中心のスタイルと完全決別し、ボブ・マーリーらが体現したラスタファリズムの精神へと回帰する。これにより、社会的責任を担う成熟したアーティストとしての姿勢を明確に打ち出した。
アルバムでは「Politician」などを通じて腐敗した政治や社会不正を鋭く批判し、「Africa」ではルーツへの回帰と人種的連帯を訴えるなど、強いメッセージ性を展開。音楽は明確に社会的・人道的方向へと深化した。
さらに、サジタリアス・バンド(Sagittarius Band)を率いたワールドツアーでは、彼のステージは単なる娯楽を超えた儀式のような神聖性を帯びるに至る。人種や背景を超えたリスペクトを獲得し、その存在は預言者とも形容されるほどの評価を確立した。


1997年
この年にラス・レコーズ(RAS Records)から発表されたアルバム「Freedom of Speech」は、イエローマンのメッセージ性が頂点に達した作品となった。同作はグラミー賞(Grammy Awards)の「最優秀レゲエ・アルバム賞」にノミネートされ、二度のがんを乗り越えた不屈の精神と表現の自由を掲げる姿が国際的に高く評価された。


1999年
活動拠点をアーティスト・オンリー・レコーズ(Artists Only Records)へ移し、新たなキャリア段階に入る。同レーベルから発表されたアルバム「Yellow Fever」は、コンシャスなメッセージ性を基盤としながらも、初期を想起させるユーモラスで陽気な要素を融合した作品となり、従来のファン層から高い支持を得た。


2003年-2005年
2003年のアルバム「New York」では、ヒップホップと多文化が交錯するニューヨークを題材に、自身の音楽がストリート文化へ与えた影響を再提示する。続く2004年には、ミクスチャー・ロック・バンドのオーピーエム(OPM)の作品「Forthemasses」に参加し、ジャンルを越えたコラボレーションを通じて新たなリスナー層へ存在感を広げた。
この時期を一区切りとして、彼はスタジオ録音から一時的な長期休止期間へと入ることとなる。


2000年代後半-
音源制作を抑える一方で、サジタリアス・バンド(Sagittarius Band)を率いたライブ活動に軸足を移し、現場主義へと回帰する。
アメリカやカナダをはじめ、ヨーロッパ、南米、アフリカ各地まで巡る大規模ツアーを展開し、世界的な動員力を維持。さらに、50代に入っても衰えを感じさせない圧倒的なエネルギーと観客参加型のパフォーマンスにより、ライブの帝王としての評価を決定的なものとした。
また、インタビュー等で、現代のダンスホールやヒップホップの一部アーティストが「薬物、衣服、車、家」といった物質主義や暴力を歌う傾向を強く批判。「私は本当の暴力を知っている。音楽は人々を教育し、救うものであるべきだ」と語り、ルーツに根ざした音楽の重要性を説き続けた。


2018年
ジャマイカ音楽の世界的普及とダンスホール・レゲエの確立への貢献が評価され、その功績が国家的に認められるに至った。その結果、ジャマイカ政府より国家勲章「オーダー・オブ・ディスティンクション(Order of Distinction)」(オフィサークラス)が授与され、過酷な出自を乗り越え国家的英雄として顕彰される歴史的到達点を迎えた。


2019年
娘であるカリーマ(K’reema)が設立したイエロー・ベイビー・レコーズ(Yellow Baby Records)と契約し、新たな制作体制を築く。そして2005年以来となるアルバム「No More War」を発表し、本格的な復帰を果たす。アンカー・スタジオ(Anchor Studios)で録音された本作は高い評価を受け、平和や愛をテーマとしたメッセージ性と、親子共演による温かみのある表現によって、成熟した姿を象徴する作品となった。


2026年
70歳近い高齢を迎え、過去のがん大手術による顔面の後遺症や機能的なハンディキャップを抱えながらも、その情熱は衰えを知らない。
そして2026年6月から日本ツアーが開催され、イエローマンは再び日本の観客の前に立つ。幾多の試練を乗り越えた“生きた伝説”として、その存在感を示すステージが期待される。


Yellowman Live

Yellowman – Reggae Sunsplash 1982

Yellowman – Live at Rockers Award Show in1984, Jamaica

Yellowman – Live at Reggae Rotterdam Festival 2018

DISCOGRAPHY

1982年
◼アルバム「Them a Mad Over Me」
…Channel One
収録曲
「I’m Getting Married」
「Mad Over Me」
「Gun Man」
「Bone Man Connection」
「Me Hot」
「Adam & Eve」
「Whine Up You Waiste」
「Sweet & Sexy」
「Lover Man Skank」


◼アルバム「Mister Yellowman」
…Greensleeves Records / Shanachie
収録曲
「Natty Sat Upon The Rock」
「Lost Mi Love」
「Mister Chin」
「Two To Six Super Mix」
「Morning Ride」
「How You Keep A Dance」
「Jamaica A Little Miami」
「Yellowman Getting Married」
「Duppy Or Gunman」
「Cocky Did A Hurt Me」


1983年
◼アルバム「Zungguzungguguzungguzeng」
…Greensleeves Records
収録曲
「Zungguzungguguzungguzeng」
「The Yellow, The White & The Black」
「Who Can Make The Dance Ram」
「Yellowman Wise」
「Mental Maintenance」
「Crying For My Girlfriend
「Walking Jewellery Store」
「Body Move」
「Can’t Hide From Jah」
「Take Trip To Jamaica」

1984年
◼アルバム「Nobody Move, Nobody Get Hurt」
…Greensleeves Records
収録曲
「Nobody Move Nobody Get Hurt」
「Strictly Bubbling」
「Bedroom Mazurka」
「Body Move」
「Good Loving」
「Wreck A Pum Pum」
「Hill & Gully Ride」
「Yellowman A The Lover Boy」
「Watch Your Words」
「Why You Bad So

◼アルバム「King Yellowman」
…Columbia Records
収録曲
「Jamaica Nice / Take Me Home Country Roads」
「Strong Me Strong」
「Mi Believe / Summer Holiday」
「Wha Dat」
「Moving On / Keep On Moving」
「Disco Reggae」
「Still Be A Lady / Girls Can’t Do What The Guys Do」
「Reggae Calypso」
「Ooh We / Sea Cruise」
「If You Should Lose Me / You’ll Lose A Good Thing」


1988年
◼アルバム「Don’t Burn It Down」
…Greensleeves Records / Shanachie
収録曲
「Don’t Burn It Down
「Stop Beat Woman」
「Diseases」
「Nuh Tie Me」
「Hold A Girl 
「Want A Woman」
「Free Africa」
「Want A Virgin」
「Scorpio Crew」
「Dry Head Adassa」

1994年
◼アルバム「Prayer」
…RAS Records
収録曲
「Prayer」
「Carolina」
「Romance」
「Dancehall」
「Reggae Music」
「Guantanamera」
「Crowd」
「Africa」
「Girlfriend」
「Politician」

1997年
◼アルバム「Freedom of Speech」
…RAS Records
収録曲
「Weed Dem」
「Run Cum Cum」
「Warn Dem」
「Hip Hip Hurray」
「Chant」
「Abortion」
「Freedom Of Speech」
「Visa
「Sugar Darling」
「Here I Come」
「African Drum」
「Fed Up」
「Nice To Be Important」
「Girls In The Ring」
「Bump And Whine 

1999年
◼アルバム「Yellow Fever」
…Artists Only! Records
収録曲
「One Yellow Man」
「Gwaan A School」
「Run Yellow」
「Not A Bed A Rose」
「Reggae Ambassador」
「Too Greedy」
「Brandy」
「Lean On Me Pt.2」
「Hurt My Pride」
「The Ring Ding」

2003年
◼アルバム「New York」
…RAS Records
収録曲
「Work Out」
「That Girl」
「Peace Dance」
「Family Man」
「Leave Iraq Alone」
「World War」
「Freedom Walk」
「Spanish Girl」
「Do Me」
「CNN News」
「I Love New York」
「This House」

2019年
◼アルバム「No More War」
…Yellow Baby Records
収録曲
「No More War」
「Better Days 」
「Welcome To Jamaica」
「Love Who You Want」
「Kiss Me Each Morning」
「No Woman Tonight」
「Sex Education」
「Rubber Rubber」
「Religion」
「Family Affair」
「Reggae Lullaby」
「Rootsman」
「Border」
「Thank You」

コメントを残す