KING KONG

キングコング


・Birth name / Dennis Anthony Thomas
・Date of birth / 1962年3月26日
・Hometown / ジャマイカ キングストン

ジャマイカ出身のKing Kongは、1980年代のダンスホールシーンを象徴するレゲエ・ディージェイ/シンガー。

キング・タビーやキング・ジャミーといった伝説的なプロデューサーの下でキャリアを築いた。テナー・ソウらと共にデジタル・ダンスホール時代のカルト的な人気を博し、その特徴的な歌声とコンシャスなメッセージで知られる。一時期の活動休止やエチオピア移住を経て、2010年代以降も精力的に活動を再開。ベテランとして世界中のレゲエ・ファンからリスペクトを集め、現在もツアーや新譜リリースを行っている。

2026年1月には来日ツアーを実施予定


1982年3月26日
ジャマイカのキングストン、ダウンタウンのローズ・レーン(Rose Lane)で生まれた。


幼少期〜デビュー前
彼はセント・ジョージズ・カレッジ(St. George’s College)に通い、学校の催し物でパフォーマンスを披露する子供だった。放課後には近くのキャンピオン・カレッジ(Campion College)やキングストン・カレッジ(KC)でスクールバンドのリハーサルを窓から眺め、いつか自分もそうなることを夢見ていたという。
彼の父親も「コング」と呼ばれていたため、キャリア初期には父親に敬意を表して「ジュニア・コング(Junior Kong)」というステージネームを使っていた。


1982年
ジャマイカのキングストンにある伝説的なスタジオ、Tuff Gongでディージェイ(Deejay)として音楽活動を本格的に開始した。Tuff Gongはボブ・マーリーが設立したスタジオであり、当時からレゲエの中心地であった。当時20歳だった彼は、このスタジオで多くの著名なアーティストやプロデューサーと交流し、レゲエ業界の基礎を学んだ。この経験が後のキャリア形成に大きく影響した。
この年に、彼のキャリア初の公式シングルとなる「Pink Eye」をリリースした。具体的なレーベル名は不明だが、これがプロとしての最初の音源発表となった。この時、彼はまだ本名に近い「ジュニア・コング(Junior Kong)」というステージネームで活動していた。


1985年
伝説的なプロデューサーであるキング・タビーに見出され、彼の「ファイアハウス」レーベルのために数多くの楽曲を録音した。
1985年は、レゲエがルーツから完全にデジタル・リズム中心のダンスホールへと移行した時期である。キング・コングは、この初期のデジタル・リディムに乗せて歌うことで、その名を轟かせた。
彼の歌唱スタイル(力強く、ゴスペル調の嘆きを帯びた歌声)は、同時代の人気シンガーであったテナー・ソウ(Tenor Saw)としばしば比較され、二人はシーンを代表する存在となった。 
「AIDS」「Babylon」などはこの年にファイアハウスレーベルからリリースされた曲で、彼の代表曲となった。


1986年
1986年は、キング・コングのキャリアにおいて最も輝かしい年であり、キング・ジャミー(King Jammy)との協働によってデジタル・ダンスホール・レゲエのスーパースターとして世界的な名声を得た時期である。
前年のウェイン・スミス「Under Me Sleng Teng」の世界的なヒットにより、キング・ジャミーのスタジオはデジタル・レゲエの中心地となった。キング・コングはこのデジタル化の波に乗り、ジャミーのプロデュースでキャリア最大のヒット曲を連発。スティーリー&クリーヴィーらが手掛けたコンピューター・リディムに乗せた、彼独特のアウト・オブ・キー(意図的に音程を外したような歌唱法)で力強い歌声が人気を博した。
この年にリリースしたLegal We LegalTrouble Againはジャマイカ国内外で大ヒットを記録した。


1987年
ジャマイカでの爆発的な人気の中、彼は活動の場をアメリカ合衆国へと移した。ニューヨークのブルックリンが新たな生活と音楽活動の拠点となった。この移住の背景には、当時のジャマイカの音楽シーン特有の激しい競争や、プロデューサーとの契約関係、あるいは新たな市場への挑戦といった複数の要因が考えられる。
ジャマイカ時代はキング・ジャミーやキング・タビーといった外部のプロデューサーに依存していたが、ニューヨーク移住を機に、自身のレーベル「コンシャス・ミュージック(Conscious Music)」を設立した。これは、自身の音楽的ビジョンを完全にコントロールし、独立した活動を目指す意思の表れであった。
この年、彼の活動はローカルなアメリカのダンスホール・シーンに根ざしたものへと変化していった。ジャマイカ時代のような「デジタル・レゲエの寵児」としての勢いはやや落ち着いたが、ニューヨークや後に移住するカナダ、イギリスといった海外市場で、自身のペースで音楽活動を継続していく基盤を作った時期と言える。


1988年
キング・コングの親友であり、共に1980年代ダンスホール・シーンを牽引した人気シンガー、テナー・ソウ(Tenor Saw)がニューヨーク州ヒックスヴィルで謎の死を遂げた。公式には交通事故死とされているが、その死には多くの憶測が伴った。キング・コングは親友の死に深く心を痛め、彼への追悼として楽曲「He Was a Friend」を制作した。
自身のレーベル「コンシャス・ミュージック(Conscious Music)」からリリースされたこの曲はテナー・ソウの最高の瞬間を引用しつつ、悲しみと友情を込めた感動的な内容で、ダンスホール・シーンで大きな反響を呼んだ。
また、ニューヨークでの活動を続ける傍ら、この年にカナダへと活動拠点をさらに移した。コンシャス・ミュージック・レーベルからのリリースは、カナダ移住後も散発的に続けられた。


1990年初頭〜中頃
1990年初頭にカナダからイギリスのロンドンへと活動拠点を移した。これは、当時活況を呈していたUKレゲエ・シーンへの参入を意図したものだった。
ロンドンでは、現地の主要なプロデューサーやレーベルと積極的に協働した。UKレゲエ界のトッププロデューサーであるマフィア&フラクシー(Mafia & Fluxy)やガシー・P(Gussie P)らと数多くのレコーディングを行ったことで、彼のサウンドはジャマイカのデジタル・ダンスホールから、UK独特のハードでダブ・ライクなサウンドへと変化していく。1992年には、UKのA.R.S. (Addis Records) レーベルからアルバム「We are the King」をリリースするなど、アルバム単位でのリリースも行った。
この時期、ジャマイカ全盛期のような圧倒的な商業的成功には至らず、リリースは散発的となった。また、個人的な問題やビザの問題なども抱え始めたことで活動は次第に停滞し、最終的に1990年代半ばには活動の一時的な中断や投獄といった事態に直面することとなる。


1996年
1990年代半ばからイギリスで収監されていたキング・コングは、1996年に刑務所から釈放された。投獄の詳細は不明だが、この釈放が彼の音楽キャリア再開の第一歩となる。釈放後、イギリスの移民法に基づき故郷ジャマイカへ強制送還され、数年間離れていたキングストンのレゲエ・シーンに戻った。
ジャマイカ帰国後、彼はかつての恩師キング・ジャミーのスタジオを再び訪れた。ジャミーはキング・コングを温かく迎え入れ、すぐに新しい楽曲のレコーディングに取り掛かった。このレコーディングは彼の活動再開を意味したが、1980年代のようなデジタル・ダンスホールの最前線ではなく、より落ち着いた、ルーツ色の強いサウンドや当時の新しいダンスホール・スタイルを取り入れたものとなった。


2000年初頭〜
 ジャマイカへ帰国後、彼は音楽活動を再開したが、2000年代に入ると、再び国外、特にニューヨークのレゲエ・コミュニティとの繋がりを強めた。ニューヨークを拠点とする著名なサウンドシステムであり、プロデューサーでもあるボビー・コンダーズ(Bobby Konders)率いる「Massive B」が、彼の才能を再発見する重要な役割を果たした。
キング・コングはMassive B レーベルのためにいくつかのシングルを録音した。この協働により、彼の楽曲は再び世界のサウンドシステムでプレイされるようになり、ベテラン・アーティストとしての存在感が再認識された。この時期の代表的なリリースには、シングル「Jah’s My Best Friend」や「Earth Is The Lord」「Troubles」などがある。


2007年
ジャマイカや「バビロン」(ラスタファリ思想で退廃的な西洋社会を指す)での生活に疑問を感じ、ラスタファリの教義であるアフリカ回帰を実践するため、エチオピアのシャシャマネに移住した。
このシャシャマネは、ハイレ・セラシエ皇帝がアフリカ系ディアスポラのために提供した土地で、世界中のラスタファリアンにとって特別なコミュニティが存在する場所だ。彼は言葉だけでなく実際に行動することの重要性を語っており、長年の夢を実現させた形となった。


2013年
オランダ・アムステルダムを拠点とするダブ・サウンドシステム/レーベルであるKing Shiloh Recordsからアルバム「Ethiopian Dream」をリリース。
この作品は、彼が2007年にエチオピアへ移住し、ラスタファリの教えである「アフリカへの帰還」を実践する生活の中で生まれた楽曲で構成されている。キング・コングが音楽業界に本格的に復帰するきっかけとなり、世界中のレゲエファンに彼の健在ぶりとエチオピアでの新たな生活を印象付けた作品となった。 


2018年
フランスのサウンドシステム/レーベルであるIrie Ites Recordsからアルバム「Repatriation」をリリース。2007年からのエチオピアでの生活経験と、ラスタファリ思想に基づく「アフリカへの帰還」という主題を深く掘り下げた作品だ。音楽スタイルは、80年代のデジタル・レゲエやラバダブの雰囲気を現代的なサウンドと融合させており、往年のファンを喜ばせる仕上がりとなっている。
このアルバムは批評家から高い評価を受け、キング・コングのキャリアにおいて最も完成度の高いプロジェクトの一つとして確立された。このリリースにより、キング・コングは再び国際的なレゲエアーティストの最前線へと押し上げられ、アルバム発売に伴うヨーロッパツアーやフェスティバル出演など、精力的なライブ活動を展開した。


2023年
長年のパートナーであるニューヨークのレーベルMassive B Recordsと再びタッグを組み、2枚のシングル「The Herb」と「Power」をリリースした。
これらの楽曲は、プロデューサーBobby Kondersの手によるもので、長年にわたる両者の信頼関係と、キング・コングの精力的な活動継続を証明するものとなった。


2025年
複数の新曲を積極的にリリース。

2026年の来日ツアー開催が告知される。


King Kong LIVE

King Kong(Sugar Minott,Tenorfly) – live in Southampton, UK, 1991

King Kong – Live at.FRANCE 2014

King Kong & Burro Banton & Pinchers & Irie Ites – Old School (Official Video)

DISCOGRAPHY

1982年
◼「Pink Eye」

1983年
◼「Toot Toot Too Much」


1985年
◼「AIDS」
◼「Babylon」


1986年
◼「Trouble Again」
◼「Don’t Touch My Boops」
◼️「Legal We Legal」
◼アルバム「Trouble Again」
…Greensleeves Records
収録曲
「Mash It Up Already」
「Move Insane」
「Follow Me」
「Mix Up」
「Sweet & Tender Love」
「Trouble Again」
「Jungle Man」
「I Don’t Know」
「Legal」
「Emmanuel Road」

1988年
◼「He Was A Friend」

1991年
◼「Not A Bwoy Caan Test We」
◼「Break Down The Walls」

2005年
◼アルバム「Rumble Jumble Life」
…Massive B
収録曲
「Rumble Jumble」
「I Feel A Joy」
「Troubles」
「Earth Is The Lord」
「Ethiopia」
「Call Me Madden」
「Unity」
「Free Speech」
「Legalize It」
「Jah Is My Best Friend」

2013年
◼アルバム「Ethiopian Dream」
…King Shiloh Records
収録曲
「Give It Up」
「How Good & How Pleasant」
「Ethiopian Dream」
「Serious」
「Twenty Twenty」
「Afrika」
「Seek Jah」
「Dem A Fake (DC Cut)」
「Signs Of Revelation」
「Rasta Live On (Album Mix)」

2018年
◼アルバム「Repatriation」
…Irie Ites Records
収録曲
「Money Could A Buy」
「Gwaan」
「Pree The Money」
「Repatriation」
「Change」
「Old School」
「Just A Grow」
「Wake Up The Town」
「Rootsman Skanking」
「Dancehall Teacher」
「Licky Licky」
「After Midnight」

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